【連載vol.7】挑戦するな実験しよう(西田卓司)

1.挑戦するな実験しよう

大学生は、「挑戦しろ」と言われ続けている。挑戦してPDCAを回せ、地域の課題を解決しろと。

「地域に挑戦の連鎖を」とかつて長期インターンシップ「起業家留学」プログラムを立ち上げた時に僕も言ってきた。

 

しかし、その「挑戦」という言葉が、大学生たちを苦しめているのではないかと思うのだ。

「2自分に自信がない」で書いたが、自分に自信がない大学生は、挑戦の最初のドミノが倒れないのだ。そして何より、ここ最近、プロジェクトの募集要項にある「挑戦」という言葉が大学生に響いていないことを感じてきた。こういうときに思考のきっかけとなるのは、誰かのつぶやきだったりする。

 

「トライを飛ばして、チャレンジしようとしているのでは?」と大学4年生のこはるがつぶやいた。それだ!って思った。

トライ(実験)すること。チャレンジ(挑戦)ではなく。

チャレンジ(挑戦)には、目的・目標があり、成功(目標・目的達成)と失敗(未達成)があるが、トライ(実験)には、ただ、結果があるだけである。

 

そう。「挑戦しろ」と言われるあまり、「挑戦しなきゃ」と思い込んで、「実験」できなくなっているんだ。

0と挑戦のあいだに、無数の「実験」のグラデーションが広がっているのだけど、「挑戦」しか見えていないのだ。そして、挑戦するには自信がない、だから何も始められないということになる。

 

2 「予測不可能性」というエンターテイメントの本質

思えば、子どもの頃に自然の中でやった「遊び」とは、すべて「実験」だったのではないだろうか。

水たまりに勢いよくジャンプして飛び込むと、どうなるか、渋柿を生のままかじってみると、どうなるか、爆竹を水面ぎりぎりで爆発させたら、どうなるか。

「実験」とは、結果がどうなるか?っていうのを楽しみに、やってみる、すべてのものを指すのだと思う。

 

2017年春、「つながるカレー」(加藤文俊他 フィルムアート社)の加藤さんに話を聞いたときに、ピンときた。「予測不可能性」こそがエンターテイメントの本質なのではないか、ということ。

全国いろんなところに出かけていき、その土地で入手した具材を使ってカレーを作り、近所の人に提供する「カレーキャラバン」をしている加藤さんの一番楽しい瞬間は、片付けを終え、車で帰途に就いている時だという。

その時に、1日の振り返りをする。「雨が降ってきて、30人分のカレーが余っちゃったね~」と。

予測不可能なことが起こること。それがカレーキャラバンに向かわせるモチベーションになっている。カレーだから、あとから何かを入れたりすることもできる。参加する人に合わせてカレーが変化していくのだ。

 

それって、エンターテイメントの本質だなあと思った。サッカー観戦をするってどういうことなのか、僕自身はスポーツは自分でプレイする派なので分からなかったけど、この日に分かった。そうか、予測不可能な瞬間を、一期一会の瞬間をスタジアムで味わいたいのか、と。

「実験」とは、予測不可能な結果を期待してやること。そこに出てくる「結果」はすべてエンターテイメントになる。そこには成功も失敗も存在しない。

3 「場のチカラ」がアウトプットを出す。

この夏、僕にとって、もっとも大きな収穫は「場のチカラ」の言語化であった。「場のチカラ」についても、冒頭に登場した大学4年生こはるの一言がきっかけだった

「場のチカラとチームの力って違うんですか?」

えっ。直感的に「それは違うでしょ」と思ったけど、即答できず。しばらく考えて、次のような説明ができた。

 

チームの力はチームメイトひとりひとりの集合体であり、同じアウトプットが出ると期待される。

でも「場のチカラ」は人だけじゃなく、時と場所によっても変わってくる。つまり、並べるとこのようになっている。

 

7 どのようにやるか(how)

6 なにをやるか(what)

5 誰のためにやるか(for whom)

4 なぜやるか(why)

3 どこでやるか(where)

2 いつやるか(when)

1 誰とやるか(with whom)

 

このうち、1~3によって「場のチカラ」は構成されていて、そこに4~7をプラスすると「プロジェクト」ができる。重要な順に下から順番になっているのは、それが土台となって、上ができていくと考えているからだ。

 

そして重要なのは、「アウトプットを出すのは場のチカラである」ということだ。一見、アウトプットを出すのは、個人やチームの力であるように見えるが、「いつ」という個人個人のライフステージや時代背景、「どこで」という事業展開する場だったり、ミーティングの場だったりを高めていくことが良いアウトプットにつながった経験をした人は多いだろう。

4 場のチカラを「チューニング」する

それでは、場のチカラを高めるにはどうしたらいいのか。昨年、考えたのが「チューニング」(音合わせ)という手法である。

 

ミーティングやイベントが始まる前に、自己紹介が行われる。その際に、「出身地」や「最近あったよかったこと」などを付け加えていくというもの。ワークショップ用語では「チェックイン」あるいは「アイスブレイク」と呼ばれているかもしれない。

 

しかし、これは「チューニング」である。この人は、どんな素材を使っていて、どんな音を出す人なのか、あるいは今日の調子はどうなのか、どんなことにいま関心があるのだろうか、そんなことが「出身地」や「最近あったよかったこと」によってわかってくる。

 

「チェックイン」や「アイスブレイク」が「場」を主語にした言葉であるのに対し、チューニングはそこを構成する参加者ひとりひとりにフォーカスした言葉である。

ミーティングやイベントの終わりにも、ミーティングそのものに対しての感想、「今日のミーティングはどうだったか?予想しなかったよかったことはあるか?」を話してもらう。これもチューニングである。

特に、「最近あったよかったこと」や「ミーティングにおける予想しなかったよかったこと」に関しては、聞かれてみて初めて考えるので、話にライブ感(即興性)がある。話にライブ感があるとき、人の心はフワッと開く。それが連鎖して、ミーティング自体の雰囲気もよくなっていく。

 

場のチカラの最大の構成要素である「誰とやるか?」この「誰」について、どれほど知っているだろうか。どんな人か分かっているのだろうか。「チューニング」は、場のチカラを高めるひとり30秒でできる小さいけどインパクトの大きい工夫である。

5 場とアイデンティティとコミュニティ

アウトプットをするのは、個人やチームの力ではなく、「場のチカラ」である。

とすると、そのとき、その場に参加している個人はどうなっているのだろうか。

 

「場に溶け出している」「場と一体化している」と僕は思っている。

場のチカラの構成員として、「場」の中で役割を担っている。

 

いや、「役割」という言葉は適切でないかもしれない。

その「場」において、個人は溶け出しているのだから、そこには「自分」という概念そのものが無くなっているのではないか。

この夏、僕にとって、もっとも大きなテーマは、「自分」であった。「中動態の世界」(國分功一郎 医学書院)を読むと、「自分」とか「意志」とか「未来」とかいう概念そのものに疑問が湧いてくる。

中動態とは、能動態(する)と受動態(される)でもないこと。能動態と受動態の対立は、行為者は誰か?お前の意志は?と問いかけてくる。

しかし、かつて、動詞にそのような態はなく、「いま、こういう状態(状況)です」と状況を表す言葉しかなかった。

世界は言葉であり、言葉は世界であるから、そのような言葉がなかったということは、そのような世界を生きてきた、ということである。

 

ヨーロッパと違い、日本は長らく、そういう言語世界を生きてきた。高校の時に習った古典が難しいのは、そこに主語が書かれておらず、「これ、誰がやったの?」を考えることが難しいからだ。松尾芭蕉の俳句に主語が出てこないのは、そこに「自分」(という概念はないが)は溶け出している、一体化しているからではないか。

 

明治時代に入り、近代化・欧米化とともに、「自分」という概念が入ってきた。それから150年が過ぎ、当たり前のように、「自分」という言葉を使っている。

しかし、それこそが、自分という概念そのものがアイデンティティ不安を生んでいるのではないか、と僕は思う。

 

自分らしさとは何か?

人の役に立つために、どのような役割を果たせばいいのか?

そんな問いが生まれてしまう。

 

それと並行して、地域コミュニティ、企業コミュニティの希薄化も進んだ。かつて、祭りの日は会社を休んででも祭りを優先させた地域も多い。企業でも、社員旅行や社内運動会という行事もたくさんあった。

もはや、出身地域やいま働いている企業が、自分のアイデンティティを形成してくれない。

6 アイデンティティ・クライシス時代を生きるには

自らのアイデンティティの形成のために、コミュニティを求める。属しているコミュニティの総和が自分自身である、というロジックである。コミュニティで役割を果たすことで、承認され、それがアイデンティティを形成する。

 

しかし、もうその方法論は使えなくなってきていると言えるだろう。「レイヤー化する世界」(佐々木俊尚 NHK新書)によれば、18世紀後半からあっというまに世界を席巻した「国民国家」というシステムの神髄は、ウチとソトに分ける、ということだった。

インターネットがそれをフラット化してしまった。だんだんと世界には、ウチもソトも存在しなくなる。

だから、アイデンティティも、コミュニティのウチにいる、という理由では形成されない。そもそもウチとソトの境が溶け出してしまっているからだ。

 

じゃあ、どうすればいいのか?

 

複数の「場」によって、瞬間瞬間、アイデンティティを形成していくしかない。しかし、上で書いた通り、「自分」は場に溶け出してしまっているから、そこには確固たる、他者と自分を分けるものとしてのアイデンティティは存在しない。

 

しかし、アイデンティティ問題の本質は、存在承認であるとすれば、その「場」を構成するメンバーとして、存在承認は得られる。

それは「役割を果たす」というより、「役を演じる」というほうがしっくりくる。

7 舞台をつくり、役を演じること

「挑戦するな、実験しよう」そこには、「夢」「自分」「役割」などのキーワードではなく、世の中を劇場化・舞台化し、自らの役を演じるような、「場」がある。

 

「場」の中の構成員のひとりとして、いや一部として、そこにある自分の役を演じること。そうやって、ひとつの劇場が、舞台ができていく。

このメンバーでしかできない、一度きりの舞台。それが「場」である。その場に身を溶かし、場のチカラを高め、アウトプットを出していく。

そしてその結果を振り返り、予測不可能な出来事を楽しみ、改善策を考え、次の舞台へと進んでいく。

 

そうやって、自らの存在承認を満たしていくような人生を僕も望んている。

大学生たちよ、挑戦するな、実験しよう。

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書き手プロフィール>>

西田卓司:余白おじさん/現代美術家/NPO法人ツルハシブックス代表理事

新潟大学農学部在学中、畑はコミュニティの拠点になり得る、と任意団体「まきどき村」を設立、毎週日曜日に農作業後に囲炉裏を囲んで食べる「人生最高の朝ごはん」を実施。

2002年に不登校の中学3年生との出会いを機にNPO法人設立。(現在のNPO法人ツルハシブックス)

2008年、地域企業(主に新潟市)における大学生の長期インターンシッププログラム「起業家留学」を開始。

2011年、新潟市西区JR内野駅前に新刊書店「ツルハシブックス」を含むウチノ・コラボレーション・ラボラトリーを事業開始。

2015年、茨城大学社会連携センターにてCOCコーディネーターとして勤務。地域志向系科目の運営サポートおよび大学生の地域プロジェクトの立ち上げに携わる。

2018年、「にいがたイナカレッジ」に参画、中間研修等を担当。

現在のキーワード:「本」「本屋」「食」「農」「中動態」「地域」「キャリアドリフト」「感性」「身体性」

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