○はじめに
木沢を離れて一年が過ぎました。その間、中越は震災から十年目を迎え、地域は新たなステージへと歩み始めています。ぼくはと言えば、新潟での思い出を糧に、遠い京都の地で社会人としての日々をゆっくりと踏みしめる毎日です。この一年間、木沢をはじめとして、新潟を忘れたことは一度もありません。むしろ「新潟」というワードは確実にぼくのアイデンティティの一部としてそのウエイトを大きくしています。
本来であればもっと早くにこの記事を書きあげなければいけなかったはずなのですが、何事も後回しにしてしまう性格のせいもあってこのタイミングでの寄稿となってしまいました。(たぶん)ずっと待っていてくれたイナカレッジ事務局のみなさんすみませんでした。
新潟を離れて一年を経た今、当時の自分がどのような思いを持っていたのか、また、移住という選択をしなかった自分がどのような思いで新潟との関わりを続けてきたのか、その中で、どんな思いが新たに生まれてきたのか、そんなことを書き記させてもらいたいと思います。
○「村の在り方」への思い
一年前、木沢での活動報告会で、自分なりのむらづくりの考え方を集落のみなさんにお伝えしました。それは、大学院時代に出会った「むらおさめ」という言葉を、少し違った捉え方でぼくなりに表現したものです。
「むらおさめ」とは、作野広和さんという方が提唱されている、むらの在り方についてのひとつの考え方です。「人口減少や高齢化が進み、どうしても地域活性化の難しいと思われる地域においては、活性化を目指すよりもむしろ福祉的なケアに重点をおくことで住民のQOLを高めていくことが重要ではないか。また、これまでの集落の暮らしや、そこに確かに集落があったという記録を残し、村の知恵を後世につなげていくことが重要ではないか。」という、いわば「むらの看取り」を視野に入れた考え方です。
この考え方について、中山間地域のむらづくりというものについて考えていた当時のぼくは強い共感を覚えました。木沢集落が活性化の難しい地域だと思ったとか、そういうことではありません。木沢に限らず、むらづくりを活性化ありきにしてしまうと、どうしても活動のハードルが上がってしまうし、思っていた成果が得られなかった場合の疲労感や失望感といったものも大きくなってしまう可能性がある。であれば、集落の実情に即した無理のない活動を行なう中で、地域住民の幸福感を高めていくような取り組みこそが大事だと思っていました。2014年、「“地域活性化”を軽々しく語るな!」というセンセーショナルなタイトルの記事のシェアがFacebookのタイムラインに目立った時期がありました。総務省職員である若い男性のTEDでのスピーチ。あぁ、これも「むらおさめ」の考え方に近いなぁと思いながらその記事を見ていたことを思い出します。
「むらおさめ」を考えることが「看取り」であるかどうかは別としても、そういった姿勢で取り組みを続けることで、ふとしたきっかけで逆に集落が活性化していく(いわゆる「どっこい生きている現象」が起こる)可能性もあるとも思いました。人間の医療現場においても、重い病気を患っていた人が何かをきっかけに快復に向かうという話はありますよね。地域づくりの現場でもそういったことは十分にあり得る。「むらおさめ」というネーミングから誤解されがちですが、「むらおさめ」は必ずしも村をおさめていくことをねらいとするものではなく、村の在り方というものを考えていく場合に、「いつかは終わる可能性がある」ということを視野にいれておいてもいいんじゃない?いうニュアンスだとぼくは思っています。
でも、それを村の人たちに伝えることは、とても難しいことです。だって、だれも村が終わることなんて望んでいないし、ましてや、よそ者からそんな話をされて、それが素直に受け入れられるはずがありません。ただ、地域の在り方というものを考えていく際に、重要なひとつの考え方だなぁとずっと心のどこかで思っていました。
○村は一本の縄である
木沢に住むことを決める前からそういった思いが胸にありながら、木沢での一年間を過ごすなかで、自分の中でふと、「むらおさめ」の考え方を前向きに伝えることのできる比喩が浮かんできました。それは、「村は一本の縄と考えてみてはどうか?」というもの。木沢での報告会では、「村を一本の縄だとみて、これからのむらづくりを考えてみましょう」という話をさせてもらいました。
縄綯いをされたことがない方にはピンとこない話かもしれませんが、縄というものは何本かの藁を縒り合わせることで出来あがります。何本もの藁が絡み合い、一本の縄になっていくのですが、それはまるでひとつの村の姿を見ているようでもあります。村の住民一人ひとりは、いうなれば縄を構成する一本一本の藁です。村人が様々なしがらみを持ちながら、ひとつの村をつくり上げている。村での生活が続いていく限り、縄は綯われ続けていきます。
昔は村にも住民がたくさんいました。藁がいっぱいあったから、当時の縄は太くて丈夫なものだったでしょう。現在はどうでしょうか。年が経つごとに藁の数は少なくなり、一本一本の藁も弱くなっている。また、藁が少なくなることで綯い方(集落での生活)も思うようにいかなくなっている。もしかするといずれは、藁がなくなって縄を綯うことができなくなってしまうかもしれない。これが、人口減少とそれに伴う集落機能の低下という問題に直面する村の現状です。
そんな現状のなかで、それぞれの地域でむらづくりに携わろうとする人たちの役割としては、少ない本数でもうまくきれいに綯える方法(人口や年齢に見合った集落運営)を考えることや、一本一本のわらを大事にする(福祉や一人ひとりの生きがいを充実させる)こと、藁の本数を増やしていく(移住者を獲得する)ことなどが考えられると思います。「どうすればこの縄を長くきれいに綯い続けられるか?」ということを考えていくことが、人口減少と高齢化の進む中山間地域におけるむらづくりの本質だと言えるのではないでしょうか。ぼくが一年間お世話になったフレンドシップ木沢のみなさんが取り組まれていることも、まさにそういった役割を果たしているものだと思います。
○「終わり」ではなく「完成」を見据える
そうやってそれぞれの地域がむらづくりに取り組んでいく中で、それでもいつかは、藁が絶え、村がなくなるときがくることもあるかもしれません。しかし、村が終わるということ、それは、言いかえれば一本の縄が完成するということです。最後がボロボロで雑な縄とみられるか、細いけど最後まで丁寧に綯われたきれいな縄とみられるか。縄としての出来の評価は、村としての歴史を評価されることと同じです。どうせなら、きれいな縄としての完成を迎えたいですよね。
むらを縄に置き換えて考えてみると、それぞれの地域がむらづくりに取り組む意味、むらづくりに取り組んでいる「今」の意味をよりポジティブな視点で捉えられるようになる気がします。いつまで村が続くかわからない。だけど、とにかくきれいな縄を目指して村づくりに向き合っていくこと。もしかしたらその中で、ふとしたきっかけで藁が増えていくかもしれない。画期的な綯い方が考えられるかもしれない。きれいな縄を目指す限り、むらは細く長く続いていく。そんな気持ちを持つことが、むらづくりにとって大切なことなのではないかと思います。
○「担い手」にはなれずとも「綯い手」にはなれる
では、村に住む人々がむらづくりを進めていく中で、よそ者であるわたしたちには何が出来るでしょうか。私たちは、村ではなくよそに住む以上、藁として縄の一部になることはできません。つまり、直接的に地域の「担い手」となることは出来ないのです。しかし、先ほども言ったとおり、縄を長くきれいに綯い続ける方法を考えていくことがむらづくりの本質だとすれば、私たちは「担い手」にはなれずとも「綯い手」としてむらづくりに関わっていくことは出来るはずです。それは決して難しいことではなく、例えば、若い人たちがむらのじいちゃんやばあちゃんと会うことで、その人たちに少しの元気を届けてみる(縄に例えるなら、それは一本一本の藁を元気にすることで縄全体を丈夫にすることにつながる)。そんなことでもいいと思います。少しイメージしやすいところで言えば、中越で活躍されている地域復興支援員のみなさんや、定期的に地域を訪れてくれる大学生のみなさんなどは立派な「綯い手」と言えるのではないでしょうか。
○「綯い手」としての実践
前置きが長くなりましたが、木沢を離れてからの1年間、それはぼくにとってまさに「綯い手」として木沢とどう関わるかを考えさせられた一年だったと思います。一年木沢に暮らしていたとはいえ、村を離れてしまえばやはり直接的にむらを担うことはできない。新潟から遠く離れた京都という土地にいれば、ますますできることには限りがあります。それでも、ぼくは木沢のために何かがしたいし、木沢とのつながりをずっと持ち続けていきたい。そう考えたときにぼくにできることは、1回でも多く木沢に帰るということでした。幸いなことに、木沢で過ごした一年の間に、木沢に住むほとんどの方々と顔見知りになることができました。また、自分が若いということもあって村のみなさん(特にばあちゃんたち)にはとても可愛がってもらいました。その恩を全て返すことはできないけれど、せめて自分が木沢を大好きだという気持ち、心からこの集落を大切に思っている気持ちを、一回でも多く帰って皆に顔を見せることで伝えよう。それがこの一年間のぼくの「綯い手」としての実践でした。
6月、8月、10月、11月、2月。約2カ月に1回のペースで木沢に帰って、地域復興支援員の方にばあちゃんたちとのお茶会をセッティングしてもらったり、盆踊りや寄り合いっこなど集落の人みんなが集まるイベントに参加したり、何もない日は村を回ったり、その度に出来るだけ多くの方々と顔を合わせることを目標に関わりを続けました。自己満足に近い部分もありますが、それでいいのだと思います。「髙橋要は木沢を忘れていない」ということが一人でも多くの人に伝われば、木沢の藁は少しだけ丈夫になるかもしれない。それがいま「綯い手」としてのぼくにできる精一杯の恩返しです。
○新潟を離れてみえてきたもの
「綯い手」としての恩返しを目指しながら何度も新潟に帰る中で、また、京都での新潟県人のコミュニティで新潟について語り合う中でみえてきたもの。それは、木沢だけじゃなくて新潟という地域全体を大好きになっていた自分の気持ちです。思い起こせば、インターン中も木沢だけでなく、川口、長岡、小千谷、それ以外にもたくさんの地域の方々にお世話になりました。大学院時代から続く同世代とのつながりもあります。地元である山形でのつながりも大切で、でも新潟でのつながりはそれ以上に大切なものになっているかもしれない。そんな思いがこの1年の間に大きくなりつつあります。
そんな新潟への思いが京都で出会った新潟出身者の友人と重なって、「新潟移住計画」なるものの運営にも携わることになりました。地方に移り住みたい人、新潟出身者、いま新潟に住んでいる人。それぞれの人生にとって新潟が選択肢になるような、選択肢が選択になるような、選択が正解になるような、そんなお手伝いができればいいなと思っています。
自分が将来どこに住むかは、まだわかりません。山形かもしれないし、新潟かもしれないし、京都かもしれないし、どこか別の場所になるかもしれない。でも、いつか新潟に帰ってきて、地域でいきいきと暮らす新潟のみなさんと一緒に輝ける時間があったら素敵だなと、そう思っています。
○「万人の心のふるさと」たりうる中山間地域
最後に、中山間地域と呼ばれる地域の魅力と、その地域を守っていく意味について、個人的な考えを書かせてください。
木沢集落の隣の隣には、塩谷という集落があります。その集落には定期的に関西から多くの学生が訪れていて、年度末には「卒業式」と称して四年生が塩谷での学びや塩谷に対する思いを発表していく場があるのですが、その中である学生がこんなことを言っていました。
「塩谷には都会にはない『何か』があります。でもその『何か』は言葉にできていません。」
この言葉を聞いて、強く共感したのを覚えています。ぼくが木沢に住んでいたときも、木沢に来られたお客さんから「この村のなにが一番好き?」と聞かれることがよくありました。「景色がきれいです」とか「人が本当に温かいです」とか、そのときはそんな風に答えていましたが、答えている自分もなぜかピンと来ませんでした。「この村が好き」という思いはあっても、その要素をひとつひとつバラバラに言葉にしていくと、なんだか陳腐なものになってしまいます。塩谷にきていた学生も、きっと同じような思いをもっていたんだと思います。
その『何か』の正体は、本来であれば無理に言葉にする必要はないんですが、無理やり言葉にしてしまうなら「ふるさと感」とか「故郷感」といったものになるのかなと思います。個人的に、「ふるさと感」を感じることのできる地域の条件は、「また来たい」と思える地域であるということと、「また来れる」と思える地域であるということの二つだと思っています。「また来たい」とは、心に残る景色や美しい自然、美味しい食べ物があるということ。でもこれだけでは観光地も一緒です。「また来れる」とは、そこに自分を受け入れてくれる人がいるかどうかということです。木沢や塩谷には、「また来たい」と思えるきれいな景色、自然、食べ物があり、なにより自分たちを温かく受け入れてくれて、「また来れる」と思わせてくれる村の人たちがいます。ぼくは日本全国の中山間地域をめぐってきたわけではないので一概には言えませんが、これは多くの中山間地域に共通する魅力なのではないでしょうか。
「また来れる」。そんな魅力をもつ中山間地域は「万人の心のふるさと」たりうる地域であると言っても過言ではないように思います。近年ではIターンやUターンを含め「都市と農村の交流」ということが盛んに行なわれていますが、そこには単なる「人・モノ・情報」の行き来ということ以上の意味があると思います。つまり、都市に暮らす人々と農村に暮らす人々が「ふるさと」を共有するという意味がそこに生まれているのです。
「ふるさと」は、人びとの心のよりどころです。特に3.11以降、「帰る場所」の消失に対する潜在的な不安が人々の中に少なからず生まれているとすれば、中山間地域が人々の「ふるさと」として共有されていくことには、社会全体の不安が軽減されていくという側面もあるのではないかと思います。言ってしまえば、日本社会のよりどころは中山間地域にあるのです。
そう考えたとき、中山間地域において地域づくりに取り組まれている方々の活動には、自分たちの地域をよくする、守っていく、ということ以上の大きな意味があるように思います。自分たちのふるさとを守ることは、日本のふるさとを守ること。みんながそんな風に思えたら、村の人も、都会の人も、みんなで中山間地域を守っていけるのになと思ってやみません。
○おわりに
ぼくが一年間暮らした木沢集落をはじめ、新潟県中越地方の中山間地域は、中越地震をきっかけにして思いがけず日本の中山間地域における地域づくりのトップランナーになりました。それぞれの地域の資源、人が輝きながら、新潟から全国へ、今後も地域づくりのお手本を発信し続けていってほしいと思います。ぼく自身も、新潟に縁のできた一人の人間として、これからも木沢をはじめとして新潟全体への関わりを続けていきます。
最後に、一年間愛情を注ぎ続けてくれた木沢集落のみなさん、木沢での生活を見守ってくれたイナカレッジ事務局のみなさん、川口、長岡、小千谷、その他お世話になったたくさんの地域のみなさん、改めて、本当にありがとうございました。そして、今後とも末長いお付き合いのほどよろしくお願いします!